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2024 12 24

存在論的無の存在について On Existence of Ontological Nothing


 謎とは,人類にそれが謎だと共有された問題ないし現象のことであるとすれば,わたしたちの理性は世界に対し普遍的だと主張できるだろうか.すなわち,普遍性とは,世界の全ての現象に対しその因果を完全に解明し,全ての事象を把握ひいては管理する理性の性質だと定義して良いものだろうか.

 この問題に対しては,謎の有無を検証すれば良い.すなわち,謎が世界にないのであれば,あるいはなくなる見通しが証明できるのであれば,上述の普遍性の定義が成立しよう.そうなれば,わたしたちは自然を完全に解明し,自由に利用し,また人心をいずれ完全に理解し,安全平和に互視する社会を構築維持することができる.近代が夢想した理想郷ないし完全監視社会,または自然を征服し宇宙を人類が管制する未来も,現実のものとすることができよう.

 しかし,わたしはこの仮定を否む結果を主張しなくてはならなくなった.すなわち,人類にとって永遠の謎が世界に存在する,しかも無限個存在するのである.したがって,人間理性の普遍性には,少しも知ることができない事象が存在するために,むしろ部分性と表現した方が適切な性質があるように感じられる.すなわち,わたしたちは誰でも,世界を部分的にしか知ることができない.そこで,次の問題を証明できる.「存在論的に無は存在するか」という問題である.

 存在者が存在すると言えるためには,存在することを人間理性が知らなくてはならない.存在者の全てを知らず一部を情報として知るだけでも,存在すると言う人もあるだろう.しかし,存在者が謎である,すなわち存在者に関する情報が何も得られない(あるいは得ても解明不能な事象である)と,その存在者が存在すると人間理性は言うことができない.このような謎が(しかも無限個)存在するのだから,存在すると言うことができない存在者が(無限個)「存在する」と言える,すなわち,存在論的に存在しない事象が(無限個)「存在する」と言える.

 数理の科学を,世界の全てを知り,これを理解する方法として,わたしは20年あまり研究に没頭した.だが,世界に謎が存在しないことではなく,むしろ,情報が充分に得られない事象が無限個あることを主張するに至った.わたしはこれに満足した.わたしの気持ちもこれで充分である.世界はやはり懐が深く,好奇心を満たすには限りなく,そう簡単に設計意図を明かすものでない.ゆえに,科学研究は人類が存続する限り継続可能である.

 わたしたちは科学とともに生きる.問いを見出し,答えを発見し,仕組みを発明し,生活を変え続けることができる.なぜなら,存在論的無,すなわち,情報が充分に得られない謎のうち,その一つが,わたしたち人間が 土: humus に命の息を吹き入れられて造られ,その骨から異性が造られたことである,つまり,わたしたち人間の根本的発生現象が,謎として与えられているからである.

 わたしたちは 土である: human beings にもかかわらず,すなわち,土から生まれ土にかえる存在にすぎないにもかかわらず,わたしたちがどのようにして生まれたのかについて探求し続ける限り,わたしたちがなぜ何のために生まれたのかについて,後世の子孫が満足するほど完全に解明することはないだろう.無数の宇宙に配置された数多の月や星,そしてそれらもまた(無尽蔵の)土であることを思うたび,わたしたちがなぜこのようなものとして命を与えられ,信仰を持った人びとをはじめとしてこの世がなぜ常に顧みられているのか,畏れとともに大きな慈愛を覚える.この感情の持続保証によって,以降の研究を続ける個人的意義を,わたしは失ったのである.

 参照:風上の詩